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ティベリウス・センプロニウス・グラックス(, 紀元前213年没)は、第二次ポエニ戦争期の共和政ローマの元老院議員。紀元前215年と213年に執政官を務めた。父は同名のティベリウス・センプロニウス・グラックス、大グラックスの叔父になる(大グラックスの父はプブリウス・センプロニウス・グラックス)。'', 紀元前213年没)は、第二次ポエニ戦争期の共和政ローマの元老院議員。紀元前215年と213年に執政官を務めた。父は同名のティベリウス・センプロニウス・グラックス、大グラックスの叔父になる(大グラックスの父はプブリウス・センプロニウス・グラックス)。 ==概説== グラックスが歴史に登場するのはカンナエの戦いの後、アエディリスに、その任期期間に独裁官となったマルクス・ユニウス・ペラのもとでマギステル・エクィトゥム(騎士長官)として任命されている。 紀元前215年に独裁官の推薦により執政官に就任、この業務には独裁官の命令に従い、ローマの同盟軍を見捨てる事も行っている。同僚執政官がガリアにて不意打ちに合い殺されると、マルクス・クラウディウス・マルケッルスが選出される。しかし、パトリキ階級の者からプレブス出身の者を2名同時に執政官にする事がまかりならんと抗議され、マルケッルスは翌年の執政官に、そして彼に代わる執政官としてクィントゥス・ファビウス・マクシムスが選ばれた。そしてハンニバルに対して兵力が不足する中、ファビウス・マクシムスと元老院は奴隷の中で退役後自由民に解放する事を約束に、志願兵を募り軍団を作ることを決定する。そしてグラックスがこの奴隷軍団の指揮者となった。 彼はこの「奴隷軍団」の優秀な指揮官として名が知られるようになり、また一部が敵前逃亡を犯しても(敵前逃亡はローマ軍では十分の一刑に相当する重罪)寛大に接し、彼らからの忠誠と信頼を勝ち取ったという。紀元前214年には前執政官待遇で奴隷軍団を率いて中央、南イタリアに転戦、ハンニバルと対峙した。その戦いぶりは凄まじいものだったという。 紀元前213年に彼は再び執政官に選ばれる。その年の冬、任期が終わり次の年の執政官の命で奴隷軍団から離れた際に不意打ちに遭って殺された。ハンニバルはこの死んだ司令官を丁重に葬り、遺灰をローマに届けたと言う。そして国家ローマではなく司令官個人への忠誠心で成り立っていた「奴隷軍団」は霧散してしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ティベリウス・センプロニウス・グラックス (紀元前215年、213年の執政官)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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